タイトルなし

とにかくこれといったおもしろい出来事などなにもおこることなく焼尽されていく毎日、そんななか今日は弟の17歳になる誕生日だった。

本日は、普段みないゲームの実況動画をみたり、普段あまり読まないような難しい本を読んでみたり、弟の誕生日にケーキを作ったり、用意したプレゼントを渡したりなんなり。

慣れないことは慣れていかないと、慣れない。

 

おやすみプンプンは親が好きな漫画なんだけど、ずーっと昔に一回読んだことがあって、とにかく気持ち悪くなったのを覚えてる。うわーーってなりたいときとかに読みたくなる漫画。昨日あたりから、なんとなくそれを読んだ。

 

青春の生きにくさだったり、肉親の生々しさだったりは 言葉に表現し難い、血のかたまりみたいなもんで、若い頃は苦しくて、凝り固まってるんだけど気がつくとどこかで自分の一部になっていくような気がする。

 

プンプンはなんかそういうのをわかりやすく、心臓を抉ってくれるように教えてくれる漫画で、多分ひとによって好き嫌いがある。私は、多分好き。

 

世の中の表裏を知り始めた時、クラスの女子にも、男子にも、先生にも、親にも、親戚にも、近所のおじさんにも、世界の人々全員対して、ゾッとする瞬間があったなぁって、思い出して、いちいちヒーーッ、てなれる。

 

で、この漫画を読むたび自分が成長してることに気づく。

あの変な感覚、最近感じてないなぁ

周りが怖くないな、しばらく。

周りしか見えてなかった昔と周りを気にしながら自分のこと見えてる今、どっちがいいと言われたら今だと、自信持って言える。

でも、色んなことに怖れなくなったのは、自分が世の表裏を知ったからとかじゃなくて、自分がそれにただ慣れたからな気がするー。

存在すら忘れてる人もいるかもしれないけど。

凝りが自分になじむというか、こぼれおちてた澱に気づかなくなるというか。

今日17歳になった弟は、こういう血の滲んだような味、体験しているのだろうか、そうだとしたら私は、邪魔しないであげられているのだろうか。

 

この漫画には神様が出てくるシーンが結構多い。

見えるとしたら神様はどんなんかなぁーとか、このくらいの歳でああやって神様と話せたらどんな心地だったんだろう。とか思う。

私は家系的にずーっとキリスト教だから神様に関しては、なんとなく考えることがあるけど見えたことはないなぁ。見てみたいなぁ。

でも、見えたら怖いかなぁ。

タイトルなし

退屈な時間の消耗アイテムとして、テレビ、YouTube、読書、映画鑑賞、などがあるけども。

 

それでも退屈だ、という、異常事態に備えて、私はブログという選択肢をおいてる。

 

そんな、ヒマが飽和状態になってるときこそ、人は紙を用意し、ペンを持ち、あたまをめぐらせ、日々のアレコレを執筆をすると多分いいんだろうけど。

 

でも、そんな力さえないときは、ブルーライトをビャンビャンに備えた、鉄の塊を握りしめて、こうしてブログを書くなんてのも、ありだと思う。

 

って言いながらも、なにも書くことが浮かばず、布団の中でただ、じーっとブルーライトを浴びてる。

 

今日お風呂に入って「嫌な言葉ってあるよなぁ」と、なんとなく考えたのを思い出す。

 

ブログを書いたりTwitterをしたりすると、嫌な言い回しに遭遇することがあるんだけど、たとえばなにが嫌かなぁ、

ちょっと頭良さそうな男性が使いがちな「なるたけ」とか

枕言葉に「変な話」ってやたらとつけたがる人も寒気するなぁとか

最近広告とかでみる「見える化」って言葉は中学生の頃から嫌いだし、

本来、マイナスな言葉を庇う為にある「全然」を、プラスに働く言葉の前に繋げるのもなんか違和感がある

「この映画全然良かったよ!」とか。前評判が悪い映画につけるんだったらまだわかるかも。

(「この映画全然悪くないじゃん!」なら大アリなんだけどね)

 

そんなことを思いながらお風呂に入ってたなぁ今日は。

そのあと、ふと日韓関係の歴史勉強して、胸糞悪くなったり、チマチョゴリの過去にびっくりしたりした。そんときは、あんまり深く調べないように気をつける。

きっと政治や歴史絡みのことにうるさい女って可愛くない。

 

母親と弟への誕生日プレゼント、なにがいいかなぁ。

 

 

 

ペットそのに

ゴロゴロないたら、触ってもいい合図、

指をあたまにのせると、柔らかい色の毛なみはわたがしみたい!

お風呂に浸かると、そのわたがしはぺったりなる。

わしゃわしゃやると、もちろん怒る、

マシュマロみたいな手からにゅきっと凶器がかおをだし、世話してあげてる人の手をひゃっとやる。

踏むと激怒するけど、実は強靭な尻尾

ミルクが目の前にあると、なにもかも、どうでもよくなって無心にペロペロ、その癖わざわざ買ってきた無調整豆乳にはめもくれないの

きみが崩した本の山、書類の山、綺麗にたたまれてた洋服たち、なおしてるのは誰なのかしらない、質問なげかけたって、どんなことがあっても「ミャー」しか言わない! そう!きみはネコちゃんなのさ〜

ペットその1

ああ、きみたちはそこが30センチにも満たない水槽だってこと、おおきなせかいのちいさな国の、ちいさな家庭の、かたすみに置かれた、水槽の中だってこと、しらないのか。

にせものの淡水のあじはおいしいのかな

カルキはちゃんと抜かれているかい

1日3回の、ピンク色のちいさい粒は、どんな味がするんだろう

静かに寝静まった夜は、酸素のポンプがじりじりきこえる

そこにいるダイバーはほんとじゃなくて、ホントのダイバーってのは、もっとデカくて、私くらいデカくて、子どもの体重くらいあるボンベを背負ってる

増え続けるタニシを片目に、スイスイと泳ぐ、物思いにふける暇なく、真っ直ぐ泳ぐ、さかなちゃんたちよ、

 

意味わからんブログ

いやさぁ、今に不満があるわけじゃないけども、さっきテレビでラフティングしてる人々みて、「いーなー」って思った。

 

家に篭ってるのが嫌とかじゃなくて、最近、洞窟いったりとか、ダイビングとか、カヌーとか、してないじゃん、という意味で。

 

大学生になってから、実家暮らしとはいうものの、私には私の生活ができはじめ、家族全員で旅行する機会がかなり減った。生活リズム諸共、家族と一緒というわけにいかなくなった。

 

意外や意外、我が家は所謂アクティブ一家で、夏休み、ゴールデンウィークには必ずキャンプ、そのついでにラフティング、最後は5m下の池にダイブ!ってなこと、当たり前のようにしていた。

 

当たり前のようにそんなことをしてた家族と、あんまり煩目な(笑)旅行をしていない、だから、テレビで元気に、長瀞でラフティングしてるおじさんに憧れた。

 

私が大きくなってから、家族でアクティブに旅行するのは、せいぜい一回あるかないかくらい。そのくらいレアな方が、いい。

でも、なんかあの家族でワイワイやるアクティブさ、なくしたくないなぁって思ってる、自分の中では。それはひとりでは満たされないけど、率先して連れてってくれる強引な誰かがいたらそれでいいんだとおもう。

 

ひょんなことから緊急なんとか宣言とかいうのが発令されて、自宅軟禁される日々、友達とか恋人とかに会えないストレスとかは、幸運にもそこまで感じずここまできている。

 

自宅軟禁は暇。無闇に馬鹿みたいに、ボーッとしたり、考えたり、食べたりすることしかできない。だから今こうして、テレビでラフティングしてる人たちに「いいなー」って思ったのは、なんでなんだろう、とかなんとなく考える。

家族じゃない誰かに、家族的な、牧歌的な、ものをどっかで求めてるんかぁ。アタシ。

多分私は、親とか兄弟とかではない、でも家族的な安心感のおける、そして気のおけない仲の誰かと、ラフティングしたくて堪らないんだなぁー。

 

ラフティングしたあと5m下の池にダイブしちゃうような、人、たしかに素敵だもんなぁ〜。

 

そういう人と結婚してぇ〜。

 

 

 

ずっと好きなもの

私は飽き性であるため、ずっと変わらず好きなもの というものはあまり多くはなく、趣味は何かという質問に対して燻ってしまう。

回りくどい言い方だが、そんな私のなかで、「これはずっと好きだ」と一応、確信のあるものが二つある。

一つは酸っぱい食べ物。物心ついた時からコンビニで「梅しば」を探していたし、今も尚居酒屋で気づけば梅水晶を頼んでいるクチだ。

もう一つは昭和時代。「昭和時代」と一括りにしてしまうのはなんだか少し雑な気もするが、なんにせよ私がビビッとくるものには、昭和がらみが何かと多い…。

私は平成11年生まれの20歳で、昭和とは1ミリたりとも掠らない、キレッキレの平成ガールなのだが、なぜここまで昭和に対して憧れを抱くのか、ずっとわからなかった。

カラオケボックスで熱唱した広瀬香美の「ゲレンデが溶けるほど恋したい」、旅からの帰路、車の中で流した荒井由実の「中央フリーウェイ」、吉祥寺曼荼羅のBGMで流れていて聴き惚れたティンパンアレイの「ダンシング」。楽曲だけにとどまらず、読む本、観る映画やドラマ、心打たれるテレビコマーシャル、至る所に昭和がちらほら、平成をのうのうと生きる私の微々たるスパイスとして、なんというかピキっと存在している昭和のエッセンス。

多分昭和を生きた大人たちが見たら鼻で笑うんだろうなぁ。私がもしその世代だったら絶対に好きとか言ってなかったはず。というか、捻くれ者だから好きとか嫌いとかすら言わないで変な音オタクのレコードとか聞き漁ってるのかな。だとしたらめっちゃ嫌な奴だな。

知らないものへの憧れは知ってるものへの執着心に敵う、と思っている。恋愛についても言えるらしいが、私にとっては「時代」がそれで。

特に深いことを言おうとしてるわけじゃないし、取り立てて知識をひけらかしたいとかでもないんだけど、ただただ私は、あの時代の空気感が好き。あの時代は永遠の憧れなのです。若者の熱量やロマンスが今よりもずーっとある。そんなイメージを抱いてる。それは多分、「絶対に知り得ない」ってことが明確にわかっているからなんだっていうことに最近気がついた。中学生の頃、外国人に憧れ始めたり、年上好きとかいってみたりするのと一緒かも。論理立てて話すのが下手くそだからいつも雰囲気任せ。だけどそんな私だって、「やっぱり猫が好き」だし。笑

ちなみに私はJRのCM、最後の「JR東海♫」ってナレーション絶対必要だと思うな。

https://youtu.be/VmfSBH1XTJQ

 

18年飼っていた猫シェバが亡くなって早くも2日が経とうとしている。

亡くなる3日ほど前から不調が徐々に現れ、こちらも最期を覚悟する日々が続いた。

深夜救急で運ばれた診察室には、不安にさせる要素が満載である。完全に家猫だったからか、その要素のせいか、見慣れない風景と薬品の匂いに当たりを見回しているシェバの表情を忘れることはないだろう。

重度の貧血と免疫力の低下による溶血、更にそれによって引き起こる血尿。

どうして今まで気づかなかったのだろう。その日の夜の血尿と呼吸の乱れで異変に気がついた。自分を咎めてしまうことはどうしても避けられない結果だった。

「これだけ重度の貧血は珍しいです。食べ物だけでは補ません。輸血が必要です。体力も落ちているのでキツイかもしれません。」

輸血するには他の猫(健康で大きくてしかも若い)の血液が勿論必要になる訳で、見つかったところでなんとも、血液型、適応検査という壁に合格しなくてはならないという鬼門。

シェバは齢18歳の長寿猫。我々は、無理はさせたくないという決断を下した。勿論嫌だけど。

苦しそうにしているシェバを前に、執拗に生きながらえさせることを善とする気持ちにはどうしてもならなかった。

自分のお気に入りのソファによじ登り、最期を迎えたシェバ。大往生だと思う。

立派だった。

人間の死と動物の死を比べたい訳ではないが、

人間は、生きているとどうしても、マイナスな事情が生じてしまうものである。しかし猫や犬などの愛玩動物は、我々人間にプラスな影響しか与えないと私は思う。健気で一途で純粋な目を見て、癒されなかった時は一度たりともないし、悲しい時や辛い時には泣きながら抱きしめる。人間とペットはまるで兄弟のように過ごす。

隙間風が冷たいように

ビル風が強いように

心にぽかんと空いた隙間に、風が通ると冷たく強い風が通り抜ける。

その隙間にいてくれたのがシェバなんだと、改めて気づくときがこれからたくさんあるだろう。

遺された私たちは生きることしかできない。今を全うすることが、最大の恩返しだ。

今まで本当にありがとう。f:id:michika148:20190924101440j:image

 

私の母が好きな森山直太朗(私の学校の卒業生でもある)の楽曲には「生きてることが辛いなら」という有名な歌がある。この詩を手がける御徒町凧氏もまた、私の先輩にあたる。この歌の詩が昨晩は妙に沁みた。

 

生きてることが辛いなら/森山直太朗

 

「生きてることが辛いなら

わめきちらして泣けばいい

その内夜は明けちゃって

疲れて眠りに就くだろう

夜に泣くのは赤ん坊

だけって決まりはないんだし

 

(中略)

 

生きてることが辛いなら

嫌になるまで生きるがいい

歴史は小さなブランコで

宇宙は小さな水飲み場

生きてることが辛いなら

くたばる喜びとっておけ」